明治10(1877)9月24日、城山で西郷隆盛が自刃して、ついに7ヶ月にわたった西南戦争が終わりました。熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた薩軍は、多くの死傷者を出しながらも九州を南下して、故郷の城山を最期の決戦の場に選んだのです。南洲墓地には西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠っています。
岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、その2年後、市内各所に埋葬されていた遺骨を移し、さらに6年後には、宮崎・熊本・大分の各県からも集められました。墓石は正面に西郷隆盛、左手に最後まで奮戦した桐野利秋、右手には篠原国幹、他には村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武など幹部が並び、鹿児島県令(知事)として西郷を支援し処刑された大山綱良や、わずか14歳にして戦場に消えた伊地知・池田両少年、兄弟5人が討ち死にした児玉兄弟、県外出身者の名も見られます。また明治12年(1879)に設けられた参拝所は、大正11年(1922)西郷隆盛を祭る南洲神社となりました。
薩軍総指揮官。四番大隊長。無類の豪胆。勤皇の志士として活躍し、"中村半次郎"の名で有名。戊辰の役に功あり。陸軍少将。熊本鎮台司令長官。陸軍裁判所長を歴任。享年40。誕生日は12月2日で、その日は華やかに薔薇が飾られている。
薩軍一番大隊長。智略あり、桐野と並び立つ猛将。私学校銃隊の監督。明治5年陸軍少将、近衛兵司令官。明治10年3月4日吉次越の激戦に陣頭指揮。享年42。
薩軍二番大隊長。明治4年宮内大丞となり、岩倉具視一行に加わり欧米を視察。7年帰朝し辞職、帰鹿。私学校砲隊の監督。城山最後の日、西郷の死を見届けて自刃。享年42。
人柄温和にして義に富む。明治4年陸軍中佐、北海道屯田兵の長。明治8年には辞職して帰国。西南の役では薩軍三番大隊長。明治10年4月熊本県御船において奮戦したが、四面楚歌という状況に陥り、民家を買い取って中に入り、自ら火を放って自刃。享年40。
薩軍三番大隊一番小隊長。可愛嶽突破には先鋒となり、頭部に負傷せしも屈せず。9月24日別府晋介と共に南州翁に従い岩崎谷に進み奮戦して死す。近衛陸軍大尉。享年29。
戊辰の役に功あり。明治4年陸軍少佐。征韓論が起ると同5年命により満州地方を視察。同6年職を辞して帰国。同10年9月24日城山岩崎山に死す。享年36。
明治10年9月24日城山で戦死。明治6年近衛少佐を辞し帰郷、加治木区長となる。西南の役では6番7番連合大隊長として出陣。9月24日早朝、岩崎谷口に向かい突進中、銃弾を受けた西郷の命によりその介錯をつとめた。享年31。
鹿児島県高麗町生まれ。近衛少佐。当初陸軍本営付護衛隊長。明治10年3月に帰鹿し、辺見、別府諸将と新募兵1500人により9番大隊を編成。八代の奪回を策したが失敗に終わる。6月1日鵬翼隊大隊長として人吉作戦を指揮中に戦死。38才。
日置島津家の出身。藩の大目付役の後、在藩家老として維新の変革に尽す。西郷とは終生心の通じ合った人。都城県令。西南の役では大小荷駄本部長。城山で戦死。48歳。
明治10年9月24日城山で自刃 35才。日露戦争に輝かしい功績をたてた連合艦隊司令長官東郷平八郎の実兄。明治6年陸軍大尉を辞任、帰郷して種子島区長となる。西南の役では3番大隊9番小隊長として出陣した。
鹿児島市西田生まれ。近衛陸軍大尉、薩軍中隊長。明治10年9月22日河野主一郎と軍使となり、義挙の主意を川村参軍に告げる。24日、城山で戦死。34才。弟政治は田原坂で戦死。辞世の歌「砕けても玉の光は千よろずの後の世までも照り透らめや」
明治10年9月30日長崎で処刑、53歳。明治7年鹿児島県初代県令(知事)となる。西南の役に際し、軍資金、兵器、弾薬、食糧を送るなど薩軍を援助した罪により神戸で捕縛、官位をはく奪された。
近衛陸軍少佐のとき下野。吉野開墾社監督。西南の役では、常山隊隊長。明治10年9月24日城山で長兄の郷田七郎(38歳)、次兄の郷田八兵衛(36歳)、郷田七郎の子、吉之助少年(17歳)とともに戦死。享年32歳。正介は三男であった。なお正介の弟、郷田猪之助(27歳)は延岡で戦死。
旧姓茂手木。山梨県出身。明治10年6月23日豊後方面で戦死。34歳。京都遊学中戊辰の役で官軍に加わり功を立てた。薩摩藩士森川の養子となり、西南の役では2番大隊3番小隊付属として従軍した。
平家を祖とし、鉄砲伝来で有名な種子島時尭の一族である。彦之丞は、薩摩藩島津斉彬公の側用人側役勤種子島六郎の次男で、西南戦争では、奇平14番隊の半隊長を務めた。明治10年8月7日、弱冠二十歳で宮崎県の山陰(日向市)にて傷つき戦死した。
京都にて勤王志士と交流。明治3年、反政府運動に連座、終身禁獄の刑。西南の役時、鹿児島の獄に在ったが、大山県令に従軍を出願して釈放。明治10年3月に戦列に加わる。4月20日、熊本城の東、保田窪の激戦で戦死。34才。
伊地知末吉 明治10年3月30日 肥後松橋 14歳
池田孝太郎 明治10年9月24日 城山 14歳
新納宗次郎 明治10年3月21日 肥後境 14歳
実直(八之進) 明治10年3月26日 肥後小川 35歳
実清(矢八郎) 明治10年6月15日 武村 32歳
実休(十郎) 明治10年3月5日 肥後木留 28歳
実健(八郎) 明治10年3月11日 肥後田原 23歳
彦吉 明治10年9月24日 城山 17歳
佐土原藩主島津忠寛の三男。明治9年、7年間の米国留学を終え帰国早々、佐土原隊500名を率いて従軍。自由民権を唱えた。従者の三島貢之(38才)、中村道晴(26才)、有村武英(20才)とともに明治10年9月24日城山で戦死。21才。
川越庸太郎 明治10年9月24日 城山 26歳。
川庄喜徳 明治10年9月4日 米蔵の戦い(現鹿児島市役所付近) 26歳
福岡隊は薩軍に呼応して決起したが、薩軍と合流できないまま全滅した。戦死者104名。
中津隊士(大分県) 増田宋太郎 明治10年9月4日 米倉(現鹿児島市役所付近)の戦 28歳
増田の率いる中津隊は、薩軍の戦況不利な明治10年3月末大分県中津で挙兵し、薩軍に投じた。中津隊員は80余名。戦死者は22名にのぼった。
伴兼之 明治10年3月20日 肥後植木 20歳
榊原政治 5月10日 延岡病院 18歳
明治8年他藩士ながら特に私学校入学を許された。
西南の役が起こると帰国するよう説得されたが、敢えて従軍した。
明治十(一八七七)年九月の西南之役終熄より百二十余年、平成十一年度遺族会総会は慰霊塔建立を決議。戦域より遺砂を格納し、就中無名の戦士に光を当て顕彰の誠を捧げるべく企画、同時に南州翁や戦跡より「縁ゆかりの石」を集め、翁の足跡や苦難の跡を偲ぶよすがとした。
今般建立に当り賛同、募金に協力された有志諸賢に深く感謝の念を捧げるものである。
平成十三年九月十六日 西南之役戦歿者慰霊塔建立期成会
この樹木は、鹿児島市保存樹等及び自然環境保護地区に関する条例により指定された保存樹です。みんなで大切に守り育てましょう。
樹齢 約130年
大正2年に建設されたこの電燈は、高さ4.4メートル、鋳鉄製で、六角形の柱脚や六方に開いた花弁状の柱頭飾り、各接合部の繰形などの装飾をもつ。近代日本の礎となった旧集成館が製造した数少ない遺構である。文化保護法、第57条第1項の規定により、平成18年10月18日付けをもって文化財登録原簿に登録された。
岩村通俊 天保11(1840)~大正4(1915)、土佐藩士。 幼少のころ漢学を修め、剣を学びました。明治元年(1868)の戊辰戦争には、軍監として従軍、越後に転戦しました。維新後、新政府に仕え、明治10年(1877)5月、鹿児島県令(県知事)となり西南戦争の処理に努めました。城山の戦いで西南戦争が終わると、旧浄光明寺(現在の南洲墓地)に送られた西郷隆盛・桐野利秋以下西郷軍の戦死者の遺体をていねいに埋葬しました。そして自ら戦死者の墓碑を書いて建てました。岩村県令は「西郷隆盛らの考えは、後の世に必ずわかってもらえる」と信じ、政府への気がねや世間のわずらわしい噂をしりぞけたといわれます。岩村は、のちに北海道長官や農務大臣になりました。
この庄内柿は、庄内の偉人、菅臥牛翁と西郷南洲翁との徳の交わりを機縁として、山形県鶴岡市と鹿児島市が兄弟都市盟約を締結した、昭和四十四年十一月七日に、鶴岡市によって寄贈されました。庄内柿は庄内地方の特産品で、糖度が高くてみずみずしく、庄内の秋を代表する果物の一つとして知られています。
この常夜燈は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって寄贈建立されたもので、花棚石でできています。江戸城の無血開城には、薩摩藩から第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院(篤姫)も西郷隆盛に徳川家存続の嘆願書を送るなど、大きな役割を果たしたとされています。
明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島にもどり、青年の教育のため私学校を設立しました。ところが、明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。ついには西南戦争を引き起こしたのです。この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。隣に立つ常夜燈は、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石でできています。
黄興先生略歴
孫文と共に中国辛亥革命の代表的志士であった黄興先生は、1874年、湖南省長沙市の学者の家に生まれた。性格は寡黙で沈着豪胆、体格も偉大で英雄の風格があり,名文家,能筆家としても有名であった。
1902年、選ばれて日本に留学し、東京の弘文学院に入学したが早くから民族主義に目ざめ「華興会」の会長に推挙されるや。孫文の「興中会」とと日本で統合を図り、1905年「中国同盟会」を結成して、清朝を打倒し、中国の民主化を目ざす革命運動の推進力となった。1909年(明治42年)、友人の宮崎滔天の案内で鹿児島を訪れここ南洲墓地を参詣した際、次の詩を賦した。
黄興先生は1916年、志半ばにして上海でその波乱に満ちた生涯を閉じ、後に故山の長沙市岳麓山に国葬を以って埋葬されたが、終生、中国の西郷南洲を自認し、南洲翁の人格と思想に傾倒した。黄興先生の憂国の至情を追慕すると共に、その出身地、長沙市と鹿児島市との友好都市盟約終結二十五周年に当たり、両市の交流が更に深まることを切望して已まない次第である。