一:政府にあって国のまつりごとをするということは、天地自然の道を行うことであるから、たとえわずかであっても私心をさしはさんではならない。だからどんなことがあっても心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実にたえることのできる人に政権をとらせることこそ天意すなわち神の心にかなうものである。だからほんとうに賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職をゆずるくらいでなければならない。従ってどんなに功績があっても、その職務に不適任な人に官職を与えてほめるのはよくないことの第一である。官職というものはその人をよく選んで、授けるべきで、功績のある人には棒給を与えて賞し、これを愛しおくのがよい、と翁が申されるので、それでは尚書(中国の最も古い経典、書経)仲キ(殷の湯王の賢相)の誥(官吏を任命する辞令書)の中に「徳の高いものには官位を上げ、功績の多いものには褒賞を暑くする」というのがありますが、徳と官職とを適切に配合し、功績と褒章とがうまく対応するというのはこの意味でしょうかとたずねたところ、翁は大へんよろこばれて、まったくその通りだと答えられた。
二:賢人がたくさんの役人たちをひとつにまとめ、政権が一つの方針にすすみ、国がらが一つの体制にまとまらなければ、たとえりっぱな人を用い、上に対する進言の路を開いてやり、多くの考えをとりいれるにしても、どれを取り、どれを捨てるかにつき一定の方針がなく、あらゆる仕事はばらばらでとても成功どころではない。昨日出された政府の命令が今日は早くも変更になるというようなのも皆、統一するところが一つでなく政治の方針がきまっていないからである。
三:政治の根本は学問をさかんにして教育を興し、軍備をととのえて国の自衛を強化し、農業を奨励して生活を安定させるという三つにつきる。その他いろいろの事がらは皆この三つのものを助長するための手段である。この三つのものの中で、時代により、あるいは時のなりゆきによってどれを先にし、どれを後にするかの順序はあろうが、この三つのものをあと回しにして他の政策を先にするというようなことがあってはならない。
四:多くの国民の上に立つ者(施政の任にある者)は、いつも自分の心をつつしみ、身の行いを正しくし、おごりやぜいたくをいましめ、むだをはぶきつつましくすることにつとめ、仕事に励んで人々の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや生活を気の毒に思うくらいにならなければ政府の命令は行われにくいものである。
五:ある時「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し。丈夫玉砕甎全を恥づ。一家の遺事人知るや否や。児孫の為に美田を買はず」(人の志というものは幾度も幾度もつらいことや苦しいめに遭って後はじめて固く定まるものである。真の男子たる者は玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥とする。それについて自分がわが家に遺しおくべき訓としていることがあるが、世間の人はそれを知っているであろうか。それは子孫のために良い田を買わない、すなわち財産をのこさないということだ。)という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと実行することと反していると言って見限りたまえと言われた。
六:人材を採用するにあたって、君子(徳行の備わった人)と小人(人格の低いつまらない人)との区別をきびしくし過ぎるときは、かえってわざわいを引起すものである。その理由は天地がはじまって以来、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、よくこのような小人の心情を思いはかってその長所をとり、これを下役に用い、その才能や技芸を十分発揮させるのがよい。藤田東湖先生はこう申されている。「小人は才能と技芸があって用いるに便利なものであるからぜひ用いて仕事をさせなければならないものである。だからといって、これを上役にすえ、重要な職務につかせると、必ず国をくつがえすような事になりかねないから、決して上に立ててはならないものだ。」と。
七:どんな大きい事でもまたどんな小さい事でも、いつも正しい道をふみ、ま心をつくし、決していつわりのはかりごとを用いてはならない。人は多くの場合、ある事にさしつかえができると何か計略を使って一度そのさしつかえをおし通せば、あとは時に応じて何とかいいくふうができるかのように思うが、計略したための心配事がきっと出て来て、その事は失敗するにきまっている。正しい道をふんで行うことは目の前では廻り道をしているようであるが、先に行けば返って成功は早いものである。
九:忠孝(天皇や国によくつかえ、親を大事にして子としての義務をつくすこと)仁愛(他人に対してめぐみいつくしむこと)教化(教えを導いて進ませること)という三つの道徳は、まつりごとの基本で、未来永遠に、また世界のどこにおいてもかえてはならない大事な道である。道というのは天地自然のもので、たとえ西洋であっても決して区別はないのである。
一〇:人間の知恵を開きおこすというのは愛国の心、忠孝の心を開くことである。国のため尽し、家のため勤めるという人としての道が明らかであるならば、すべて事業はそれにつれて進歩するであろう。あるいは世の中には耳で聞いたり目で見たりする分野を開発しようとして電信をかけ、鉄道を敷き、蒸気仕掛の機械を造って、人の目や耳をおどろかすようなことをするけれども、どういうわけで電信、鉄道がなくてはならないか、また人間生活に欠くことのできないものであるかということに目を注がないで、みだりに外国の盛大なことをうらやみ、利害得失を論議することなく、家の造り構えから玩具類に至るまで一々外国のまねをし、身分不相応にぜいたくな風潮をあおって財産をむだづかいするならば、国の力は衰え、人の心は浅はかで軽々しくなり、結局日本は破産するほかないであろう。
一一:文明というのは道理にかなったことが広く行われることをたたえていう言葉であって、宮殿が大きくおごそかであったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見かけが華やかでうわついていたりすることをいうのではない。世の中の人のいうところを聞いていると、何が文明なのか、何が野蛮(文化の開けないこと)なのか少しもわからない。自分はかつてある人と議論したことがある。自分が西洋はやばんだと言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。いや、やばんだとたたみかけて言ったところ、なぜそれほどまでにやばんだと申されるのかと力をこめていうので、もし西洋がほんとうに文明であったら、未開国に対してはいつくしみ愛する心をもととして懇々と説きさとし、もって文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、未開で知識に乏しく道理に暗い国に対する程むごく残忍なことをして自分たちの利益のみをはかるのは明らかにやばんであると申したところ、その人もさすがに口をつぐんで返答できなかったよと笑って話された。
一三:税金を少なくして国民生活をゆたかにすることこそ国力を養うことになる。だから国にいろいろな事がらが多く、財政の不足で苦しむようなことがあっても税金の定まった制度をしっかり守り、上層階級の人たちをいためつけたり下層階級の人たちを、しいたげたりしてはならない。昔からの歴史をよく考えてみるがよい。道理の明らかに行われない世の中にあって、財政の不足で苦しむときは、必ず片よったこざかしい考えの小役人を用いて悪どい手段で税金をとりたて、一時の不足をのがれることを財政に長じたりっぱな官史とほめそやす。そういう小役人は手段を選ばず、むごく国民を虐待するから人々は苦しみに堪えかねて税の不当な取りたてからのがれようと、自然にうそいつわりを申し立て、また人間がわるがしこくなって上層下層の者がお互いにだましあい、官史と一般国民が敵対して、しまいには国が分離崩壊するようになっているではないか。
一六:節義(かたい道義、みさお)廉恥(潔白で恥を知ること)の心を失うようなことがあれば国家を維持することは決してできない。それは西洋各国であってもみな同じである。上に立つ者が下に対して自分の利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれにならうようになって人は皆財欲に奔走し、卑しくけちな心が日に日に増長し、節義廉恥のみさおを失うようになり、親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するに至るのである。このようになったら何をもって国を維持することができようか。
一七:正しい道をふみ、国を賭して倒れてもやるという精神がないと外国との交際はこれを全うすることはできない。外国の強大なことに怖れ、ちぢこまり、ただ円滑にことを納めることを主眼にして自国の真意を曲げてまで外国のいうままに従うことは、あなどりを受け、親しい交わりが返って破れ、しまいには外国に制圧されるに至るであろう。
一九:昔から主君と臣下が共に自分は完全だと思って政治を行うような世にうまく治まった時代はない。自分は完全な人間ではないと考えるところからはじめて下々の言うことも聞き入れるものである。自分が完全だと思っているとき、人が自分の欠点を言い立てると、すぐ怒るから、賢人や君子というようなりっぱな人はおごりたかぶっている者に対しては決してこれを補佐しないのである。
二〇:どんなに制度や方法を議論してもそれを説く人がりっぱな人でなければ、うまく行われないだろう。りっぱな人があってはじめて色々な方法は行われるものだから、人こそ第一の宝であって、自分がそういうりっぱな人物になるよう心掛けるのが何より大事なことである。
二一:道というものは、この天地のおのずから道理であるから、学問を究めるには敬天愛人(天は神と解してもいいが、当時の学者今藤宏はこれを道理と説いている。すなわち道理をつつしみ守るのが敬天である。また人は皆自分の同胞であり、仁の心をもって衆を愛するのが愛人である。)を目的とし、自分の修養には己れに克つということをいつも心掛けねばならない。己れに克つということの真の目標は論語にある「意なし、心なし、固なし、我なし」(当て推量をしない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない。)ということだ。すべて人間は己れに克つことによって成功し、己れを愛することによって失敗するものだ。よく昔からの歴史上の人物をみるがよい。事業をはじめる人が、その事業の七、八割までは大ていよくできるが、残りのニ、三割を終りまで成しとげる人の少ないのは、はじめはよく己れをつつしんで事を慎重にするから成功もし、名も顕われてくる。ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、畏れつつしむという精神がゆるんで、おごりたかぶる気分が多くなり、そのなし得た仕事をたのんで何でもできるという過信のもとにまずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。だから、常に自分にうち克って、人が見ていないときも聞いていないときも自分をつつしみいましめることが大事なことだ。
二四:道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も平等に愛し給うから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。
二五:人を相手にしないで常に天を相手にするように心掛けよ。天を相手にして自分の誠をつくし、決して人の非を咎めるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ。
二九:道を行う者はどうしても困難な苦しいことに会うものだから、どんなむずかしい場面に立っても、その事が成功するか失敗するかということや、自分が生きるか死ぬかというようなことに少しもこだわってはならない。事をなすには上手下手があり、物によってはよくできる人やよくできない人もあるので、自然と道を行うことに疑いをもって動揺する人もあろうが、人は道を行わねばならぬものだから、道をふむという点では上手下手もなく、できない人もない。だから一生懸命道を行い道を楽しみ、もし困難なことにあってこれを乗り切ろうと思うならば、いよいよ道を行い道を楽しむような境地にならなければならぬ。自分は若い時代から困難にあうて来たので今はどんな仕事に出会っても心が動揺するようなことはないだろう。それだけは実にしあわせだ。
三〇:命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手に負えない大馬鹿者でなければ困難をいっしょにわかちあい、国家の大きな仕事を大成することはできない。しかしながら、このような人は一般の人の眼では見ぬくことができぬと言われるので、それでは孟子(古い中国の書)の中にあるように「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其道を行ふ。富貴も淫すること能はず、貧賎も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」(注 人は天下の広々としたところにおり、天下の正しい位置に立って天下の正しい道を行うものだ。もし、志を得て上げ用いられたら一般国民と共にその道を行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで行えばよい。そういう人はどんな富や身分もこれをけがすことはできないし、貧しくいやしいこともこれによって心のくじけることはない。また威武(勢力の強いこと)をもって、これを屈服させようとしても決してできない。)と言ってあるのは今、仰せられたような人物(真の男子)のことですかとたずねたら、いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければそのような精神は得難いことだと答えられた。
三五:人をごまかして、かげでこそこそ事を企てる者は、たとえその事ができあがろうとも、物事をよく見抜くことのできる人がこれを見れば、みにくいことこの上もない。人に対しては常に公平で真心をもって接するのがよい。公平でなければすぐれた人の心をつかむことはできないものだ。
三六:聖人賢士(知徳のすぐれた人、賢明な人)になろうとする志がなく、昔の行われた史実をみて、自分などとうてい企て及ぶことはできないというような心であったら、戦いに臨んで逃げるよりなお卑怯なことだ。朱子(昔の中国南宋の学者)は刀のぬき身を見て逃げる者はどうしようもないと言われた。真心をもって聖人賢士の書を読み、その一生をかけて行い通された精神を、心身に体験するような修行をしないで、ただこのような言葉を言われ、このような事業をされたということを知るばかりでは何の役にも立たぬ。自分は今、人の言うことを聞くに、何程もっともらしく議論しようとも、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけのことであったら少しも感心しない。ほんとうにその行いのできた人を見れば、実にりっぱだと感じ入るのである。聖人賢士の書をただうわべだけ読むのであったら、ちょうど他人の剣術をそばから見るのと同じで、少しも自分に納得の行くはずがない。自分に納得ができなければ、万一試合をしようと言われたとき、逃げるよりほかないであろう。
三八:世の中の人の言う機会とは、多くは、まぐれあたりに、たまたま得たしあわせのことをさしている。しかし、ほんとうの機会というのは道理をつくして行い、時の勢いをよく見きわめて動く場合のことだ。かねて国や世の中のことを憂える真心が厚くなくて、ただ時のはずみにのって成功した事業は決して長つづきしないものである。
三九:今の世の中の人は、才能や知識だけあればどんな事業でも心のままにできるように思っているが、才にまかせてすることはあぶなっかしくて見ておられないくらいだ。しっかりした内容があってこそ物事はりっぱに行われるものだ。肥後の長岡先生のようなりっぱな人物は今は似た人もみることはできぬようになったと嘆かれ、昔の言葉を書いて与えられた。 それ天下に誠に非ざれば動かず。才に非ざれば治まらず。誠の至る者その動くや速し。才の周ねき者その治むるや広し。才と誠と合し然る後事を成すべし。 (注 世の中のことは真心がない限り動かすことはできない。才識(才能と識見)がない限り治めることはできない。真心に徹するとその動きも速い。才識があまねくゆきわたっていると、その治めるところも広い。才識と真心といっしょになった時、すべてのことはりっぱにできあがるであろう。)
四ニ:ある事がらにあたって考えの乏しいことを心配することはない。およそ物事に対する考えというものは、かねて無言のまま坐っている時、心をしずめている時にすべきことである。そうすれば、何か事ある時には十のうち八、九はやりとげることができるものである。一つの事がらに出会ってその場で軽はずみにいろいろ考えるということは、たとえば寝床で夢をみている間にすぐれた方法や考えを得ることができたように思うが、あくる朝目覚めて起床するときには、役に立たない、正しくない想いに終わってしまうようなことが多いものだ。
四四:ぐずぐずしたり、疑い深いというのは第一の毒で、害を及ぼすことが、きわめて多い。決して国を憂える心の厚いとか薄いとかに関係することではない。正しい道をもって物事を判断すれば、きっと筋道にかなうであろう。どうしてぐずぐずしたり疑い深い心など起こり得ようか。ぐずぐずしたり疑い深いというのは正しい心の不足から起こってくるものである。
四五:至誠(この上もない真心)の境地はまず独りを慎むことから手を下すべきである。することもなく、ひまでいることは、すなわち独りを慎むによい場所である。小人(人格の低いつまらない人)にとっては、こういう場所が、すべての悪いことのより集まりであるから、わがままや、心弱く怠ける思いを起こさないことが、独りを慎むということである。ここが善と悪の分かれるところであり、最も心を用いなければならない。昔の人が言っている。「静かで安らかな心で人としてこの上もない道をきわめる」と。これこそ至誠の境地である。慎まないでよかろうか。人としてこの上もない道をきわめるよう努力しないでよかろうか。
四九:物事の上で、機会というものが二つある。まぐれあたりの機会と、こちらからしかけた機会である。真の男児たるもの、決してまぐれあたりの幸いを頼んではならない。大事に臨んでは、ぜひ機会というものをひきおこさねばならない。英雄といわれる者のなしたことをよく見るがよい。自分でひきおこした機会というものは、後から見るとまぐれあたりの幸いのようにみえる。これは気をつけねばならないことだ。